いきるを考えるいのちを踊る
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生きるということ、踊りのこと、星のこと、スピリチュアルなこと、食のこと
さまざまな興味関心について、学びや気づきをつづっています















"セラピスト"や"先生"が、かならずしもこころの理解者ではないということ


本日は、少し辛口です

そしてタイトルも長いっ(汗)

でも書かないとって思ってたこと


おはなしを聴いていて

ときどき驚くことがあります


相手を信頼してこころを打ち明けたけど

こんなことを言われて、あんなことを言われて、、

つらかった、傷ついた


え!その立場でそんなこと言うの?!(汗)と

こころない言葉に口がポカーン

驚きを隠せません


そして、それらのお話のお相手とは

だいたい"セラピスト"や"先生"と名のつく

"こころ以外"を専門とする方とのお話


一見混同しがちですが

残念ながらこれらの方々は、こころの専門ではありません

だからこそ、逆に言うと

この人と思って勇気を出してこころをオープンにしたのに

グサっと刺されるような感覚が返ってきたとしても

それは、まったく気にする必要がありません


なぜなら、それらの方々は

こころの学びを得た方々ではないからです


もちろん、こころの学び得ていない方々でも

先天的に優れた能力を持つ方はおられます


少なくともそういう方からは

「あなたの考えは間違っている」

「これが(わたしが)正しいのよ」

そんな風に言葉に出している、もしくは

非言語的にそのようなメッセージを放っているように

こちらが感じられる、ということはありません


そのように感じられる場合

"先生""セラピスト"という立場をつかって

自己主張したいだけの状態なので

まったく気にしなくて大丈夫です


こころを学んだ人たちは

自己と他者を混同するような受け取り方

話し方はしません


共感はしても、あくまで

わたしはわたし、あなたはあなた


ただあなたにとっての真実を受ける

そしてあなたらしい答えを共に考える

心に沿うような、そんなスタンスです


この世に正解は一つもありません

すべてが正しくて、すべてが間違い


じゃあどこに正解を見出せばいいのか

やはり己の内だと思います


でも、それは、誰かに主張するためというより

こころの奥にある

柔らかくて微細なものに触れようとすること

その行為そのもの


ブライアン・ワイス博士は、ご自身の著書の中で

このようなことを書いておられました


人々が深い催眠にはいった時

語られる言葉はみな同じだと


それは、愛や平和を願う気持ち、感謝、慈悲


結局みんなここにたどり着くようです


こころが静かで安全な状態にある時

やっと姿をあらわすことのできる意識


よほどのトレーニングを受けていないと

そう簡単に言葉にできるものではありませんし

この深い意識から出てきた言葉は

まず、誰も傷つけることはないでしょう


わたし自身も定期的に、様々な実践型の

WSなどで学びを重ねていますが

その中でも時折、参加者の中に

残念ながら痛みを覚えるような

お話をなさる方がおられます

それは、日常で"先生"や"セラピスト"と

呼ばれる方であったりします


一生懸命ご自身の正しさのようなものを

主張されているんですが

そのお話を聴いていて

一体、この言葉を受けた方は

どんな気持ちになっただろう


絶望、自己否定、、そんな言葉が浮かび

想像するだけでこころが痛くなりました


当然、これらの方々は

こころを専門とする方ではありません


大切なことは、今目の前の現実に対して

この地球上に悲しみや絶望の意識を増やすのか

それとも喜びの意識を増やすのか

ただそれだけです


少なからずわたしは

そこに集中すればいいと思っています


話をしていて、自分の中に絶望感や自己否定感が増えたなら

それは、ご自身のことを話すべき相手ではないということ


立場や言葉に惑わされなくて大丈夫です☆










2018.7.25